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2012年1月26日木曜日

元祖マラソンスピーチのこと

㊤)20年前、つまり1992年1月22日、僕はJR京都駅前で、「マラソンスピーチ366」のスピーカーをつとめた。予定していた話し手がこなかったので、「穴をあけてはならじ」と急遽、臨時のスピーカーになった。1月1日にはじまったばかりのこの運動に、はやくも赤信号がともった日として、記憶も鮮やかだ。

 「マラソンスピーチ366」は、いくつかの「約束事」をもっていた。「JR京都駅前で、毎日違う人が、障害者問題を語る」「1992年1月1日から12月31日まで366日間(この年はうるう年だった)、朝8時30分から10分だけしゃべる」「スピーチや記録に必要なものをおさめてある『コロ車』をその日のスタッフがとりに行って、8時30分までにセットする」というものだった。

 この年は、国連障害者の10年の最終年にあたっていた。1日だけのイベントではなく1年を通した取り組みをという声が、「マラソンスピーチ366」にむすびついた。最初から「宣伝効果」は考えなかった。だから、「マラソンスピーチ」は宣伝の一形態ではなかった。また、他人数の運動でも、「組織」をせおった運動でもなかった。

 極端なことをいえば、「コロ車」を運び当日のスピーカーを紹介する人と、当日の話し手の2人がいれば運動は成りたつ。その意味では実に「簡素」な取り組みだった。予算もわずかなものだった。事実、当初などは聞く人もいないときもあったし、僕が臨時スピーカーをつとめた日などは、自作自演、僕自身がスタッフでありスピーカーだった。

 しかしこの運動は日を重ねるにつれて輪をひろげ、巨額のカンパがよせられるようになった。多くの人に障害者問題への理解をひろめた。一人でしゃべる人はもちろん、座布団を持ってきて落語を披露する人、手話で歌う人、バンドを組む人、子どもの絵を掲げる人、琴を奏でる人、歌声を駅前に流した人、表現方法はさまざまだった。(続く)

(㊦)(承前)京都駅前での「マラソンスピーチ366」は20年前のこと。表現方法が多様であれば、話す日の選び方にも工夫があった。その日が話者自身の誕生日でその記念にという人、スピーチをした後新婚旅行に行くというカップル、この後映画村に行くと言った人、京都で全国集会があったので顔を出したという人、ベトナムやオーストラリアからの医師や研究者もいた。

 「マラソンスピーチ366」の代表者は『松葉づえで生きた「昭和」』などの著書もある夏目文夫さん(弁護士、故人)だった。この人の人生経験(大学では神学部に属し、弁護士開業時には40歳になっていたなど)と文章力、発言力などはこの運動にぴったりだった。そういうこともあって『朝日新聞』92年1月1日の「ひと」欄に“障害者問題を語る京都マラソンスピーチ実行委員会代表”として紹介記事が載った。

 この後も、新聞やテレビは障害者問題とマラソンスピーチ運動を比較的正確に報道してくれた。マスコミの報道が運動に「安心感」を与えてくれた。長丁場の取り組みゆえ、途中でだらける。それだからこそ100日、折り返し点、障害者の日なども重視して取り組んだ。そんな経過で、無視できないのは「裏方」の存在だ。

 ほぼ毎日顔を出して記録してくれた詩人、スピーカーへの連絡実務などを受けもってくれた人、仕事をしながら激励してくれた人、1週間に1日だけスタッフをかってでてくれた人、乗り換え時間を利用して耳を傾けてくれた人、そういう無数の「善意」が号令、命令なくすすんだ。

 1年間の「マラスピ」は輪を広げに広げて、ゴールインの大みそかには200人もの人が京都駅前に集まるほどにまで「成長」した。何千何万という眼が京都駅前の運動にそそがれ、その運動は、作業所、教育、憲法、医療、大学にも広がった。その運動の一端は『きこえてますか  マラソンスピーチ366の記録』(マラソンスピーチ366編、かもがわ出版、定価1800円)で読める。(終わり)
福祉広場編集長 井上吉郎さんの記事 まるまる転載です。
そんなこんなで、やっと障害者自立支援法は廃止を盛り込んだ 訴訟での基本合意は、今 どうなっている??「わたしたちぬきに わたしたちのことを決めないで」この声は 届いてない?
「子ども子育て新システム」の運動も 撤回させるために、踏ん張り時!!!

なんかしよー!!!!


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